2018年 沖縄視察②辺野古、普天間基地

二日目は、午前中昨日のシンポジウムの司会をしていた長堂登志子さんの案内で、名護市辺野古に行き、午後は赤嶺和伸さん(わんから市民の会共同代表、普天間居場所づくりプロジェクト代表)の案内で嘉手納方面に行きました。

◎辺野古テント2

この日は、お盆で座り込みはお休みとなっていました。辺野古のテントは1997年からはじまっており、22年目となります。以前来たときは、テントは浜辺に一つでした。現在辺野古テントは2つとなっていて、説明を受けた場所は2番目のテントで少し内陸に入ったところにあり、オール沖縄が運営しています。

辺野古の埋め立て作業の監視活動をしている「ヘリ基地反対協議会」の山本英夫さんにお話しを伺いま

沖縄 辺野古 計画図

した。

「辺野古は、52年前から、キャンプシュワブとしてアメリカ軍が弾薬庫として使用しています。アメリカは、極東戦略として日本に滞在しており、ますます強化しています。日本を守っているわけではありません。沖縄から戦争に行くんです。」「辺野古を埋め立て、最終的には自衛隊の基地として機能させるのではないか。しかし辺野古は海底地盤が軟弱で、埋め立ては無理ではないか。」とおっしゃっていました。

説明の後、もともとのテントのある浜を見学に行きましたが、8年前に来たときよりも心なしか浜辺には珊瑚の欠片が増えたように思いました。

※台風の影響もあり8月17日の実施を通知していた埋め立て土砂の投入は行われませんでした。そして沖縄県は、31日埋め立て承認を撤回しました。撤回することで埋め立ての法的根拠が失われ、工事は中断。

オール沖縄の課題http://all-okinawa.jp/#BlueBG

①戦争の歴史をどう考えていくか。戦争に結び付けてはいけない ②沖縄経済の在り方。国のいいなりとなるか、沖縄経済としていくのか。(軍に依存せずに沖縄の経済をまわしていくのか)沖縄の未来は? 日本の未来は?

※オール沖縄(オールおきなわ)は、沖縄県宜野湾市の米軍普天間基地の名護市辺野古移設反対派による政治的統一戦線・選挙運動である。(Wikioedia)2012年に亡き翁長雄志県知事が筆頭に立ち、オスプレイ配備反対を明確に打ち出し、県民大会を行なった少し前あたりから出てきた言葉らしい。

※2018年8月8日前翁長雄志県知事死去

 

◎キャンプシュワブゲート前 キャンプシュワブのゲートを入ってすぐのあたりを工事しており、テレビで見るゲートは工事車両の出入り口で、30人程度の警備員が並んでいました。この時期沖縄はお盆だということですが、その工事はお休みではありませんでした。残念ながら、座り込みはお休みで、台風が通った後だったので、座り込みをする人達が集まるテントがへこんでしまったのを直していました。

このあたりに来た人は、どこからかカメラにうつり、顔認証されて、もみ合った時には名前で「〇〇さん、やめなさい」とアナウンスされるそうです。怖いです。

テントには「We are Rosa Parks」と書かれていました。

ローザ・パークスは、公民権運動の母と呼ばれた人です。1955年アメリカ南部のアラバマ州のモントゴメリー市を走る市営バスでは、昔ながらの人種差別が行われており、前方10列が白人用で、後方の26列が黒人用といすが分かれていました。デパートの縫製の仕事をしていた彼女(当時42歳)は、ある日仕事の帰り道のバスの中で、白人のいすがなくなってしまったので、バスの運転手に席を1列ずつずらすように命令されたのですが、寒さと疲労で足が痛んでしかたなかったため無視して席を立とうとしませんでした。「警察をよんでもいいのか?」という運転手の脅し文句に、「お好きなように!」と言い返し、逮捕されてしまいます。この事件をきっかけに、バス・ボイコット運動が始まり、歴史を変えるほど発展することになりました。

一人ひとりがこのローザ・パークのように、立ち上がっているということなのでしょうか。

ニュースを見ていても、だれもが「辺野古を守りたい!」と集まっているということが伝わってきます。私たちも参加したいと思って3か月前から計画を立てていたのに、ざんねん。

◎不屈館によりました。

沖縄の祖国復帰と平和な社会の実現を目指して命がけで闘った、瀬長亀次郎(元衆議院議員)が残した膨大な資料を中心に、沖縄の民衆の戦いを後世に伝えようと設立された資料館です。

「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」という映画を、私はまだ観ていません。

第二次大戦後、米軍統治下の沖縄で唯一人”弾圧”を恐れず米軍にNOと叫んだ日本人がいた。「不屈」の精神で立ち向かった沖縄のヒーロー瀬長亀次郎。民衆の前に立ち、演説会を開けば毎回何万人も集め、人々を熱狂させた。彼を恐れた米軍は、様々な策略を巡らすが、民衆に支えられて那覇市長、国会議員と立場を変えながら闘い続けた政治家、亀次郎。その知られざる実像と、信念を貫いた抵抗の人生を、稲嶺元沖縄県知事や亀次郎の次女など関係者の証言を通して浮き彫りにしていくドキュメンタリー。(映画のちらしより)

普天間基地のすぐそばに住んで赤嶺和伸さんに案内していただきました。

毎朝普天間基地のゲートのところでスタンディングをされていて、その様子をFBにアップされています。

普天間基地のある宜野湾市は、とても坂の多いまちでどこも傾斜となっていますが。普天間飛行場は、平らです。宜野湾市のすべての平な部分を使用しているかのようです。戦後、その平らな部分に住む人たちを収容している間に、そのあたりにあった家をブルトーザーで壊し、飛行場にしたというお話でした。

普天間基地には、マングースが生息しており、そのマングースを調べたらPCBが検出され、基地の薬品庫には、ベトナム戦争で使用された枯葉剤等の薬品があるのではないか、ということでした。

佐喜眞美術館:丸木位里、俊さんの「沖縄戦の図」が常設されていることで有名です。

普天間基地に食い込むような形で敷地の中に立っています。基地になる前からの祖先の土地だったそうで、美術館を建てるということで返してもらったそうです。敷地には大きな先祖代々の墓地があり、その前を通る男の子が、一礼をして通り過ぎました。またその正面にある大きな石の塑像にも手を合わせて通り過ぎました。

館長あいさつ「もの想う空間へ」

◎緑ヶ丘保育園:米軍機から落下物があった幼稚園。園児の中には「飛行機の音がすると何かが落ちてくると怖がるようになってしまった子どももいるということでした。 怖さが半端じゃない!

普天間第二小学校:普天間基地にフェンス一つで隣接していました。防衛局が校庭に屋根付きの避難所の工事をはじめたことが新聞に載っていた学校です。毎日、防衛局の職員が屋上と校庭にいて、米軍機が離陸すると、校庭の児童に避難を呼びかけ、児童はそのたびに避難所に入ります。授業中に2回も避難することあるそうです。多い日には、1日に23回もあり授業が成り立たないというお話でした。

 

宜野湾市役所 集会

地元の集会に参加しました。代表の藤居あきこが、生活者ネットワークの紹介と江戸川区には原爆慰霊碑があり、丸木さんご夫妻と市民が一緒に石を掘ったこと、地域でしっかり意見を言っていくと挨拶をしました。

ネットのような団体を作りたいとおっしゃってくださったかたもあり、うれしく思いました。