阪神淡路大震災から28年 

1995年(平成7年)1月17日、明け方5時46分に起きた地震での火事が、夜になっても消すことが出来ずに燃え続けている光景を映したテレビの映像を今も思い出します。

お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたします。

 

だいぶ記憶も薄らいできているのですが、28年前に初めてボランティアに行った時のことを記しておきます。

ちょうど派遣の仕事が期限が満了となり、1月末日に退職する予定となっていました。テレビなどの報道を見るたびに、「ボランティアに行ってみようかな? ちょうど仕事も終わるし」と思うようになっていました。

夫に相談すると、早速高田馬場の「ピースボート」という団体が神戸へのボランティアの説明会をしていることを教えてくれました。

その説明会に行ってみると、50人くらいの人たちが来ていたように思います。そこで、私を神戸に連れて行ってくれた夫の友人の田中優さんを紹介してもらい、優さんとほかに4人くらいと一緒に夜行列車に乗り神戸まで行きました。朝神戸について、みんなで朝ごはん?昼ご飯?を食べて、歩いて長田区まで行きました。休憩なしで歩き続けて、長田区役所前の公園の「ピースボート」の拠点に着いた時には、夕暮れになっていました。途中は、ビルが崩れ、高速道路が崩れ、瓦礫の道路を歩いて行きました。火事のひどかった長田区では、焼け野原で、その時にもまだいぶしたような空気が残っていたことを覚えています。

公園に焚火があり、そのまわりにたくさんのボランティアが集まっていました。いろんな時点で高田馬場で行なわれた説明会に来た人たちです。夕飯の支度をしていました。避難所からのあまったおむすびの配給があり、それを大きな鍋でおじやにしたものです。月明りの下で、焚火に鍋をかけて、近くでもらったという野菜も入っていました。その日は、焚火の周りで夜通しだれかと話していて夜を明かしたと思います。

翌日には、優さんは帰ってしまいましたが、ピースボートに所属した人たちは、毎朝ミーティングがあり、グループを作ってそれぞれの役割をこなしていました。各避難所へ「困りごと」を聞きに行く人、瓦礫の片づけに行く人、ほかにもあったとおもいますが、昼間をそれぞれ仕事をしてきて、夕方戻ってきたときにはミーティングをして報告しあう、ということをしていました。私は、酒粕だったかを持って来てくれた人がいて、一緒に炊き出しをしていました。2~3日経つと、印刷屋さんが紙と印刷機を箱型のトラックにつんで持ってきてくれて、みんなの集めてきた情報(水やお風呂、炊き出しなど)を新聞にすることが始まりました。昼間は炊き出し、夜は新聞づくりとほとんど眠らない数日でしたが、突然眠くなったときがあり、区役所の2階の1室に毛布が敷いてあり、だれが寝てもいいことになっていたので、そこで1日だけ爆睡しました。

そんな毎日で、こまったのはトイレです。公園にはトイレはありましたが、流れなくなっていて大変なことになっていて、私たちは、順番に自転車で隣町のスーパーにトイレを借りに行っていました。そんなある日、公園のトイレがきれいに掃除されてバケツに水も入っていました。近所にテントとパラボラアンテナを立てていたムスリムの人たちが掃除をしてくれていたのでした。お礼に行ったら、テントには大きなテレビがあってびっくりしました。

避難所になっているある学校では、簡易トイレが10以上届いて言いましたが、あふれだすものもありました。どうしたらいいかわかりませんでした。みんながどうにかしなくてはいけないと思っているのに、だれに言ったらいいのか、どうしたらいいのかわからない状況となっていました。ただ思ったのは、ボランティアの私は、ここのトイレを使ってはいけないんだな、ということでした。

毎日の新聞は、お風呂情報担当だったような気がします。ある日、公園の近くの学校の校庭に自衛隊のお風呂がきました。10メートルくらいのテントの中が、脱衣所、シャワー、湯舟と3つに分かれていて、お湯をどんどん入れてくれてうれしかったことを覚えています。

帰りは、どうやって帰ってきたのか、あまり覚えていないのですが、バスを乗りついで神戸駅まで戻ってきたように思います。

 

あの時、

報道関係者はヘリコプターもうるさかったし、長田までタクシーなど車で乗り付けてきて、仕事とはいえ嫌な感じでした。

夜は、月の明かりで過ごしました。「電気が来ない」ってこういうことなんだ!と思いました。音もしないんですね。

外国の報道などでは、この時のことを「暴動もなく安全な国」というように伝えていたと思いますが、現実には女性がレイプにあったり、強盗事件があったりしました。ただ大きく報道はされなかっただけです。

滞在した地域には、差別や特有の慣例のようなものがあったみたいで、日中物資を配りに行っていた女子学生が泣いて帰ってくることもありました。東京から行った人たちの中には、精神的に病んでしまう人もいました。

私ははじめからピースボート、という団体を目指していったので良かったですが、そのころはまだ行政もボランティアの受け入れ態勢とかない時期でしたので、「区役所へ行ったけど、どうしていいかわからないからこっち(ピースボート)に来ました」という人も多くいました。

 

初めてのボランティアでした。この時知り合った人たちはどうしているでしょう? 元気でいることを願っています。おもいつくままに書きました。お許しください。